『アニメで知る中国』京アニ爆発火災―焼かれたのは“日本アニメの過去と未来”〜葛仰騫著

邪悪は道理もなく舞い降りた。7月18日、一人の暴徒が日本京都府にある「京都アニメーション」の第一スタジオを爆破放火した。

建物に居た73名のスタッフのうち6名だけが火災を逃れ、その他の方はみな被害に遭った。現在34名が死亡(7月20日まで)、30余名が重軽傷を負ったという(犯人も含む)。

「アニメ会社放火事件」は80年代以来死亡者が最も多いテロ事件となり、全世界でニュースとなって駆け巡り、一般人でさえこの少し奇妙な名前のアニメ制作会社を知ることとなった。アニメ業界を知る者にとって、京アニを知る人にとって、この災難が想像を絶する物であり、未来に対して悪影響しか与えないという考えに至るだろう。

私は今回の事件の詳細について追及したくない。私はこの場を借りて、皆さんに京アニが日本のアニメの過去と未来を背負った会社であることを伝えたいと思っている。我々が失ったのは、京都アニメーションが描き下ろした、日本アニメの過去と未来なのである。

日本動画の新時代の道しるべ

「京アニの作品がどれほどの影響力を持っているのか本当に知っているか?」


事件初期、中国ではメディアがなぜ京都のアニメーション会社がこの名前なのか、困惑したようだ。確かに、京都アニメーションという名前に初めて触れた人には、少し奇妙に感じるだろう。例えば上海美術電影製作所や天津大学、バイエルン機器製造工場、国際商用機器社の様な、ただの政府関連企業に感じ、サンライズ、マッドハウス、ピクサー、ジブリのようなアニメ会社とは想像できないだろう。なので、ファンは「京都アニメーション」という名前ではなく、「京アニ」と呼んでいたのだ。

また多くの(中国の)メディアも京アニをどのように一般人に紹介すべきかわからなかった。なので一般人が良く知る「クレヨンしんちゃん」を使って紹介した。

なので、沢山の人が私に「クレヨンしんちゃんの会社が放火されたの?」と聞き、メディアも「1981年設立の下請け会社」として報道した。これらの説明は間違ってはいないが、非常に端的だ。京アニはこれらの描写よりはるかに偉大なアニメーション制作会社なのだ。この非常に政府的な名前で、あまり知られていないアニメ会社こそ、日本動画史上最も重要な新時代の道しるべ、なのである。

京アニは優秀な作品を作り上げただけでなく、日本アニメ復興の重任を担っている。

京アニ作品の産業興新力は日本経済の発展方向にも影響を及ぼしている。今日、アニメにおける様々な「常識」は、ほとんど京アニが「元ネタ」である。インターネット上で習慣的に行われている行動も多くは京アニがもたらしたものである。京アニの非アニメオタクに対する影響は、アニメオタクを超えている。

「みんなで踊ってみた」

2006年、京アニが制作した同名小説のテレビアニメ、「涼宮ハルヒの憂鬱」の放送が開始した。EDの「ハレ晴れユカイ」では、主人公たちSOS団のメンバーがダンスを踊るシーンが流れた。この「グループダンス」は初めてアニメ作品のキャラクターが、ストーリーと全く関係なく、まるでアイドルグループの様に完璧なグループダンスを披露したのである。

このEDのダンスは直ぐにインターネットで連鎖的な反応を生み、当時もっとも世界で拡散したアニメ文化現象である。

理由としては、丁度インターネット動画サイトが立ち上がった時期に重なったことである。2005年、インターネット動画サイト、土豆、YouTubeがリリースされ、2006年にはniconico動画、優酷が登場した。世界の文化がインターネット動画サイトに流入した時代である。アイドル文化が盛んな日本では、独自に練習したダンスを撮影し、シェアする流れが来ていた。

「涼宮ハルヒ」の制作には意識的にこのインターネットの「踊ってみた」の文化を取り入れ、「ハレ晴れユカイ」のダンスシーンを作り上げた。楽曲、ダンス共に非常に良かったため、ネットで動画撮影、シェアをしていた人々に新しいネタを提供したのだ。何を取ったらわからなくなったら、「ハレ晴れユカイ」を投稿しよう!と。

この「踊ってみた」はすぐに視聴者のモニターから撮影者に、そして世界のアニメイベントに広がった。ごくごく当たり前のようにアニメが「次元の壁」を突破した瞬間だった。多くの学校、大学サークル、そして道端でそのダンスは披露されたのだ。

京アニは「涼宮」を通してインターネット動画の波に乗っただけでなく、踊ってみたを通してインターネットの踊ってみたという特別な波を作り出し、その後の「踊ってみた動画」の基準を作ったのだ。この文化の波から今まで無数の人気楽曲が生まれた。つい最近のモノとしては「極楽浄土」がそうである。

聖地巡礼

日本の動画は、美しく、写実的な背景でその名を轟かせている。旅行業界で最もホットなキーワードとして「聖地巡礼」があるが、これは映画、アニメのストーリーのロケ地を回る旅行の事である。それまで「聖地巡礼」に登場するのは風光明媚な観光地であり、美しい風景、或いはランドマーク的な建築物でファンを引き付け、チェックインさせるようなものだった。例えば「スラムダンク」のファンが鎌倉の踏切に行くようなものだ。だが、2007年、京アニのアニメ「らき☆すた」が放送されると、聖地巡礼の形が徹底的に変わった。

視聴者はこの動画の主人公が生活する場所が現実世界と完全に合致することに気付いたのだ。埼玉県春日部、久喜市鷲宮町である。原作はほとんど物語に背景がない四コマ漫画だったが、京アニはこの比較的「内容がなく、面白くない部分」を逆手に取り、「地域密着型アニメ」を作り出したのである動画の背景に現実世界を落とし込むために、細部にわたって実在する道や店舗を取材し、さらに主人公の一部に鷲宮神社の巫女、という設定を付与したのである。

このような設定によって、視聴者にとっては現実の中の春日部市と鷲宮町をアニメの中にそっくり持ち込んだように見え、よりリアルな感じを与えた。そして聖地巡礼が好きなアニメファン旅行者にとって、これはアニメの世界を現実世界に持ち込んだにも等しい体験を与えることとなったのだ。この町を歩けば、らき☆すたの世界に迷い込んだと錯覚させるように。

京アニと現地自治体、商店街との緊密な連携により、大量の現地限定グッズとインターネット宣伝を行い、多くの旅行者が訪れ、ブログに写真をアップさせた。「次元を超えて」アニメの世界を巡礼すること以上に面白いコンテンツがあるだろうか?ネットで自分が春日部や鷲宮で撮った写真をネットに上げることによって、次の来訪者のガイドとなることができた。

鷲宮神社もアニメファンの力によって2007年には30万人の参拝者を記録したという。聖地巡礼は趣味から産業へ、この時転換したのだといえるのだ。

動漫強国(アニメが国を強くした)

日本アニメの関連グッズは、以前より産業の最もコアな収入源だった。しかし関連グッズで本当に利益が出たのは純粋な子供向けアニメ、あるいは十年以上続いているスーパーコンテンツのみだった。

しかし2010年、またもや京アニが一本の動画ですべてを変えてしまった。「けいおん!」である。「けいおん!」は「らき☆すた」と同じく四コマ漫画が原作である。京アニはこれを青春学園モノに変えた。テーマは女子高生がバンドを組む話だが、話の大部分は彼女たちが放課後お茶を飲み、雑談する様に割かれた。

この時、京アニはまたも細部をリアルに描写する本領を発揮し、実際に存在するアイテムを主人公たちが日常生活に描き込むことによって、主人公が劇中で使用するヘッドフォンが、現実ですでに生産停止していることにより中古市場から一気に消えてしまったこともあった。

日本動画産業年間の統計によると、2010年日本アニメ業界は「涼宮ハルヒ」後の第二次関連グッズ収入の大きなピークを迎えた。このピークは日本動画産業の収入規模を6000億円以上に押し上げたとされている。

2006年の「涼宮ハルヒの憂鬱」、「コードギアス反逆のルルーシュ」、「デスノート」等の大作によって業界が大きく盛り上がったのと異なり、2010年のグッズ収入の成長の絶大的な部分は09年に放送開始した「けいおん!」によるものである。その金額400億円。もちろん「けいおん!」がもたらしたのはアニメ関連グッズの収入だけでなく、J-popを含む日本の音楽シーン、楽器、イヤホン、旅行などの業界をもけん引し、大きな影響を与えた。

2011年、日本では311大地震とその一連の災害が起こった後、「けいおん」第二期と年末に上映された劇場版が外国人の訪日を促したことで震災の復興に対して大きな貢献をしたことも付け加えておきたい。日本の新聞では「けいおん」がもたらした他業界への経済効果は400億円に相当すると言われている。

外文刊行物「日本時報」は以前「アニメは日本を超大国へ押し上げる、「けいおん」は近年日本で最も成功したテレビアニメで、日本の文化の世界影響力をさらに拡大させた」とし、中国のアニメファンも「けいおん!」を「強国の源泉」とネットミーム化させていた。

手塚治虫時代の遺産

「京都アニメーションとは日本のテレビアニメの歴史そのものなのだ」


京アニの歴史は、設立より長い。その根源は、まさに日本最古のテレビアニメ会社、日本漫画の神手塚治虫が創立した「虫プロ」である。前世紀60年代、手塚治虫は「鉄腕アトム」のテレビ動画の為に虫プロを立ち上げた。しかし70年代、虫プロは破産の危機に陥っており、社内のベテランは独立し、その後日本のアニメ業界を支える伝説的な会社が多く設立された。サンライズ(ガンダムシリーズ)、マッドハウス(寄生獣)、ピエロ(ナルトシリーズ)などがそうである。

主婦による「全女性スタッフ」

虫プロには陽子という女性の彩色スタッフがおり、虫プロが破産して間もなく、結婚し、京都府宇治市に引っ越した。結婚後主婦となった陽子は偶然、近所に自分と同じく彩色の仕事をしていた人が数名いることに気付いた。

日本の主婦は近所の人々と家庭内手工業に携わり、家計を助けていた。陽子は数名の元同業者の奥さんと共に、女性しかいないスタッフで、過去に虫プロで培ったコネクションを使い、タツノコやサンライズの下請けを請け負った。この年が1981年、陽子は京都に住んでいたため、このチームを京都アニメーションスタジオと名付けた。

虫プロ出身の陽子は当時日本アニメ業界で最も優れたアニメ彩色スタッフであったため、この女性のみのチームはすぐに業界内で有名になった。特にタツノコ、サンライズの業務は深夜まで続くほど舞い込んだという。

1985年、陽子はチームを京都アニメーションと改め、正式に法人化し、とりあえず自分の旦那である八田英明氏を社長に据えた。当時業界で最も実力のあるアニメ彩色会社、京アニがこうして誕生したのである。

もし京アニがいなければ、我々のアニメは完成しなかった


京アニは大きな後ろ楯がある会社ではない。だが、虫プロでの経験によって、手塚系のテレビアニメのグループ(東映系の宮崎駿などとは違うグループにあたる)としては最初期のスタジオになる。

しかも全員女性のスタッフによって構成された彩色会社によるものか、非常にまじめで、細かい作業が好評を得て、法人設立後も多くの指名を得ていたが、あまりに多くの委託業務をこなすうちに、非常に優秀な彼女たちは、少しずつ単純な彩色会社から、全行程を行える制作スタジオとなっていった。

彼女たちは、同様に虫プロ出身のサンライズと協力しあい、最終的には「犬夜叉」の制作を大量に請け負った。

90年代、京アニは「ドラえもん」、「サザエさん」、「クレヨンしんちゃん」を制作していた京アニはシンエイ動画と共にテレビアニメ「呪いのワンピース」を制作。品質は驚くべきもので、シンエイ動画の長期的なパートナーとなった

巷では「タッチ」の監督杉井儀三郎は京アニに自分のアニメを作ってもらいたいために、作品の発表時期を京アニのスケジュールに合わせたともいわれている。2000年前後では、京アニはずっとGONZOの動画制作に協力しており、「フルメタルパニック」第一期制作後、「フルメタルパニック・ふもっふ」のアニメの制作を全て受託することによって、初めて京アニが単独制作した作品となった。

これによって京アニの学園モノは3つの方向性「悲恋」「爆笑」「青春」と大きなストーリーライン「京アニ特有の郷愁(ノスタルジー)感」を確立させることになった。京アニのアニメが面白いのは、作画が素晴らしいという肉眼的な部分だけでなく、演出・演技が豊富だからである。木上益智の参加によって、京アニは完全に独自にアニメを制作できる領域に達した。これは京アニに積極的に新しいものを求める好奇心をもたらした。「涼宮ハルヒ」で最も伝播されたのはみんなで踊ってみただが、本当に視聴者が面白いと思ったのは、多階層に分かれた演技・演出だった。

京アニのアニメでは、背景に登場する人物それぞれが独自のストーリーを持っている。彼らはそれぞれの時間軸に従って動く。これは宮崎駿、押井守の映画で最もよく見られる手法、実写感である。

IGの元祖

京アニが協力したことがある会社の中で、最も縁が深いのが「タツノコプロ」である。タツノコは手塚プロと同様のテレビアニメ会社であり、同じように漫画家の吉田龍夫が設立し、漫画のアニメ化を中心に行っている会社である。タツノコは以前中国でも人気のある「ニルスの不思議な旅」、「天空戦記シュラト」、「超時空要塞マクロス」等を制作し、天野喜孝、大河原邦男、押井守、石川光久等を輩出し、さらにスタジオピエロ、JC Staff、プロダクションIGを生んだ。

タツノコは典型的な家族企業で、吉田龍夫の兄弟姉妹がタツノコで要職についている。その中には三女の吉田満がいる。満は社内のスタッフと結婚する。そのスタッフこそが石川光久である。石川は80年代、自分が担当する作品を完成させるために、京アニに協力を求めたことがある。彼の負けず嫌いな性格に京アニの八田社長は感銘を受けたという。

その後石川はタツノコから独立。嫁方から100万円を借りた以外に、残りを京アニから借りての独立である。その時八田社長は石川に、「君は社長の器がある、君の名前のイニシャルをとって、IGとしたらいい」とアドバイスしたらしい。そんな経緯もあって、タツノコ、IGと京アニは石川を中心にした「義兄弟」となったのである。

タツノコ主導の「超時空要塞マクロス」やIG主導の「パトレイバー」ではそれぞれ京アニに様々な仕事を依頼した。京アニが「フルメタルパニック・ふもっふ」を制作した時にはタツノコも協力したという。

京アニがいなければ、我々は「攻殻機動隊」をみることも、そして「マトリックス」を見ることもなかったといえる。また「キルビル」におけるあの映像も見られなかった。そしてネットフリックスも「ラブ、デス&ロボット」を作ることはなかっただろう。

お判りいただけたであろうか。京アニこそが、本当の「兄」なのである。

伝説の声優

京アニの高すぎる制作レベルはインターネット時代に入ってからはさらに活躍の場を得る。「京阿尼 必出精品(京アニ制作 確実に名作)」というネットミームと共に多くの中国の視聴者を巻き込んだ。そしてついには声優を育て、アーテイストを有名にする力さえも持つようになった。

京アニは新人声優を使い、彼、彼女たちを有名するための機会を与えた。多くの声優ファンは「涼宮ハルヒ」を通して杉田智和、平野綾を知っている。涼宮ハルヒの声を当てた平野綾はすぐに人気アイドルとなり、その後「らき☆すた」や「寄生獣」等の作品に参加し、アニメの中の歌唱シーンが元でライブ、バラエティ、アフレコ、舞台劇と様々な分野に進出していった。

彼女は涼宮ハルヒという身分で武道館でライブを開き、日本メディアに伝説の声優に選出された。それは当時高齢化していた日本声優の中で唯一若年声優としてノミネートされたことが理由だった。

「けいおん!」の四人組もロケットに乗ったように有名になり、京アニと音楽を作った制作者も一躍一線のアニメプロデューサーとなった。

アニメ業界を革命する力

「京アニの体制がどれだけすごいか知ってる?」


京アニが日本アニメ業界の中でも抜きんでてレベルが高いのはそのシステム、体制に理由がある。社内雇用制である。

日本アニメ業界はコスト削減のために、全行程外注方式で行っている。制作会社一般的に撮影のみ。この形は当時の手塚治虫の影響が大きい。宮崎駿を怒らせた手塚治虫による日本アニメ業界総員「低給007」(0時から0時、7日間)現象は、この頃から始まっていた。虫プロは最終的には収益を上げられず、スタッフコストの高騰とスタッフ不足によって破産した。

虫プロの破産後、業界は虫プロの問題に対して調整を行い、その解決法が「人を雇わない」だった。現在のアニメの制作は不動産会社がビルを建てるようなものだ。デザインはデザイン、工事チームは工事、管理会社が現場監督、本社はプロマネを出すだけだ。

アニメ作品の企画は一般的には社内契約したクリエイターが提出し、資金は企画案が気に入ったテレビ局やスポンサー、広告代理店が供給し、ほとんどの制作は臨時的に雇った技術スタッフが行い、細かい修正と調整は外部に委託する。こうすることで大きくコストを削減でき、さらにクリエイターが自由に力を発揮することができるようになったが、同時に作品の品質が不安定になり、スタッフの確保が難しくなった。

虫プロ出身の八田陽子と八田英明はこの方法はよくないと思った。やはり虫プロのような完全雇用制が良いと思っていた。なので1985年に創立した京都アニメーションでは最初から社内全雇用制とし、テレビアニメーションの単独制作を可能にしたのだった。

その年、アニメの大本営東京では、40数歳の中年アニメーターが独立し、同じように完全雇用制のアニメーションスタジオを作った。それがスタジオジブリである。

京アニとジブリが考えたことは同じだった。日本のアニメはこれからどうなる?

京アニとジブリの創立は同業から懐疑的な目でみられた。でも彼らは至極単純な方法で答えて見せた。作品によってである。

京アニには現在5つのスタジオと3つの支社がある。テレビアニメの単独制作だけでなく、「原作」「アニメ」「商品化」「販売」「イベント」を行う完全な会社なのだ。

京アニから様々なものを学んだ石川光久も、出版社に投資し、漫画を出版し、IGで漫画から動画化した「魔法使いの嫁」はIGが投資し、主導したアニメである。

京アニ30年の歴史はジブリの手法に負けずとも劣らず、自身の理念を貫いてきた。これは京アニから人が離れず、育っていく基礎となった。そしてこれは京アニがジブリとは異なるところである。

ジブリは全員宮崎駿と高畑勲の手と足であり、京アニは全員が新海誠であり石原立也になりえるのである。

現在の京アニはすでに昔皆が頼っていた下請け会社ではなくなった。すでにかれらは関西アニメの本陣であり、東京圏外のすべてのアニメーターが最初に選択すべき場所である。

京アニの有名な元スタッフ、涼宮ハルヒダンスの発案者、「炎上監督」山本寛は当時京アニとジブリにしか履歴書を出さなかったという。京アニの八田社長に採用されたにもかかわらずジブリに面接にいったが不採用となり、再度京アニに戻ったが、八田社長はそれでも彼を受け入れた。

関西は東京と違い、アニメはそこまで発達しておらず、競争はそこまで激しくない。東京のアニメ制作会社はアニメの作画崩壊やブラック体質が指摘されていたさなか、京アニは京都宇治のこの静かで優しい土地で真面目に自分たちの理念を堅実に実践していたのだ。

当時の奥さん達、その後石川光久、山本寛の様に、京都アニメーションは養い、無数のアニメ人材を生み出した。木上益治、武本康弘、石立太一、石原立也、山田尚子のような傑出したアニメーターは関西アニメが東京と拮抗できる旗印を示したのである。

京アニの登録社員の平均年齢は33.5歳である。この素晴らしいアニメ畑から新時代の石川光久、押井守、川尻善昭、今敏が生まれるかもしれない…もし京アニに20年時間を上げれるのであれば、京アニはこの独特なモデルによって、もう一度業界発展の方向を指示せたかもしれない。或いは京都モデルこそが最も正しいアニメ制作の形だと証明できたかもしれない。

だが、全ては過ぎ、万事窮した

最後にもう一つエピソードを紹介したい。

ある年、筆者がアニメ聖地巡礼のツアーを組んで京都に行った。京都市武道館の前を通った時、多くの学生が集まっていた。みな全日本吹奏楽部の大会に参加しに来た中学生だった。その横を通り過ぎる時、どうやら道に迷った2名の女子とすれ違った。彼女たちは大きな荷物を持ちながら、道を聞いてきた。その時気付いたのだ、彼女たちの手には「けいおん」のうちわが握られていることに。そしておそらく彼女たちが好きなキャラクターがそれぞれプリントされていることに。

当時筆者は本当に感銘を受けた。「けいおん!」という作品はどれだけ多くの音楽を志す少年少女の精神的支柱になったのであろうか!その5年後、おそらく彼女たちが大学に進学した後であろう時期に、京アニは京都府が開催した全日本吹奏楽部大会の為に「響け!ユーフォニアム」を制作した。吹奏楽部の子たちは、自分の京アニアニメを手に入れたのだ。

私がこの事件を聞いた時、一番最初に思い出したのがこの2人の少女だ。彼女たちはどのような気持ちでこのニュースを聞いたであろうか。

八田社長がインタビューに答えた内容によると、京アニ十数名の精鋭スタッフの損失は計り知れず、第一スタジオが保管していた京アニ過去10年のすべての資料は全て焼失。将来発表する予定だった4作品のデータも全滅したそうだ。

スタッフと付近の住民はこの苦しみに向き合う事が出来ず、破壊された第一スタジオは再建されず、今後記念碑を備えた公園となるという。

スタッフ、資料、財産。我々と京アニは共にすべてを失い、残されたのは慚愧の念だけだ。

関西アニメの本陣は、これによって完全に崩壊してしまうかもしれない。

たとえ体力、財力があったとしても、さらなる30年が必要かもしれない

一つの努力をしない、和解をしない絶対的な悪のため、簡単に積極的に未来を創造する人々を傷つけた。

ある人はこれをアニメ業界のパリノートルダム寺院の火事にたとえていた。

そんなレベルの話ではない。

これは「文明の後退」である。

I scream.

翻訳:ミミム(MYC)

著者:3000(本名:葛仰騫:かつぎょうけん)。元中国アニメ情報誌「24格」編集長。元優酷土豆アニメセンターチーフディレクター。《神作!一看入魂的日本動画電影》MC

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※ 上記は葛仰騫氏の著作を北京MYCが翻訳を手がけました。